デナリで卒業試験


アンカレッジのB&Bでオーナー夫妻と

“デ ナリ”は、ネイティブアメリカンの言葉で“高きもの”という意味で、6,194mの北米大陸で一番高い山の名前である。日本では、冒険家の植村直己さんが亡くなったマッキンリーとして有名だが、1980年、マッキンリー国立公園は、太古からの名前を尊重して正式にデナリ国立公園に改められた。

 
 

 レンジャーステーションにて

 ことの発端は、カナダ出発前(3ヶ月間カナダの登山セメスターに入学した→【参考】)、セメスター終了後ついでにアラスカに寄り道して一人でデナリに登れないだろうかと思いたったことから始まる。

デナリ国立公園を管理しているレンジャーステーション(以下NPS→【参考】)では、ソロは基本的に反対の姿勢であるが、毎年デナリでトレーニングされていた登山家の戸高雅史氏にお聞きすると、ヒマラヤの氷河経験のある者には許可がでるとのこと。

デナリ登山をするには60日前までにNPSに申請しなければならないので、思い立ったが吉日、さっそく申請してカナダでコンファメーションレターを受け取った。登山許可費用は150US$。それも、NPSによる道中のパトロールやルート整備、4,300mのベースキャンプにある救急医療テント(無料)やトイレの設置などに使われており、わけもなく何十万から何百万も取るヒマラヤ近隣諸国とはえらい違いである。


ヤムナスカ登山セメスターの仲間たちと

隊の名称は“ガイア デナリ エクスペディション”とした。ガイアとは、ギリシャ語で大地の女神のことで、大好きな映画「ガイアシンフォニー」からもらった。

 申請はしたものの、デナリはベースキャンプ以下にひろがる標高約2,000mの氷河歩きが問題である。氷河には無数のクレバスがあり、しかも表面には雪がかぶさっていて、ベテランでもなかなか見分けがつかない。よって、誰ともロープを結ばず一人で氷河歩きをすることは冒険というよりクレイジーなことなのだ。

 
 

  NPSにてレクチャーを受ける

誰かとその部分でロープを組めないものかと思案していると、たまたまセメスターで同期生となったもう1人の日本人ヒデ(27歳)が行ってみたいという。彼は高所の経験はないが、ヨーロッパのアルプスで4,000m峰に4つ登っており、3,700m地点に泊まってもなんでもなかったというので誘うことにする。追加メンバーは1人だけ30日前までの申請で許可されるのだ。カナダ−アラスカ間のエアチケットも格安(27,000円弱)でゲット(結局デナリ登山は、総費用1,500$で済む)。

 デナリ申請は大正解だった。はっきりした目標があるため、セメスター中は集中できたし、最後まで自分に厳しくできた(カヌーセクションは別だが)。ヒデの動機も、「今のままでは目標がないから」だった。

 

 1999/6/6のセメスター終了の翌日、一路アラスカのアンカレッジへ。デナリは始終天気が悪く、なかなかその姿を拝めないと聞いていたが、ラッキーにも飛行機からバッチリ、その一つ頭が飛び出した、たおやかな山容をかいま見ることができ、「幸先いいね!」とはしゃぎまくる。

その日のうちに食料を買いだし、日本食レストラン(久しぶり!)で夕食を取った後、世界各国の山家が集まるとてもアットホームなB&Bに泊まる。

 翌朝、デナリ登山の基地にあたる小さな町タルキートナまでヴァンで2時間移動。乗り合わせた感じのいい3人のイギリス人もデナリの、それも難しいルートを登るという。


なんと日本にはマチ針が8本も!

まずは旅のスタート地点であるカヒルトナ氷河まで運んでくれるエアタクシー会社とNPSにチェックイン。NPSでは、パソコンに収められた立体地図でルート中の危険個所やトイレの設置個所などの説明がある。

そしてロビーに掲げられた世界地図の自分の国にマチ針を刺すのだが、日本にはすでに8つも刺さっておりビックリ。その日だけでも、今年で10年目になる大蔵喜福隊長率いる「日本山岳会第10次気象観測機器設置登山隊」や「アースデスク」なる旅行会社主催の隊の入山が一緒だった。

大蔵隊は毎年、5,715m地点に設置した気象自動観測機器のデータ回収と補修を行っている。アースデスク隊には、私が昨年主催上映したドキュメンタリー映画「ガイアシンフォニー」の上映会やスライドショーにまで来てくれた方がいてさらにビックリ。その他にも知った方に何人か道中偶然お会いし、あらためて「山の世界はせまいんだナー」と変に納得。


プロペラ機の中で

 あわただしく、氷河歩き用の格好になった後、小さなプロペラ機に荷物と人間6人をギュウギュウに詰め込んで出発。約40分の空の旅では、どこまでもひろがる荒野から白き氷河への移り変わり、そしてその奥にどっしりと構えるデナリを思いっきり楽しむことができ、やっと「これから登るんだ」という実感がわいてくる。

 氷河の一端に作られた飛行場(といっても雪の上にソリを延々と刺してあるだけ)に到着すると急いで荷物を運び出し、登山から帰ってきた人達がこれまた急いで荷物を詰め込み、アッという間に小型飛行機は飛んでいってしまった。


道なき滑走路に着陸

ここで前払いしておいた、燃料の白ガソリン(飛行機に危険物は乗せられないため)とソリ(荷物引き用。1人50kg近くの荷になるため、ザックとソリに分散して、スキーを履き、腰でタイヤ引きのように引っ張るのだ。これが辛い…。)を受けとる。

氷河といっても日中はとても暑くなる(30度以上の日も!)ので、すぐにテント泊まりの準備をして明日の早朝の出発に備える。

 ここにはなんと、NPSが設置した、クレバスの上に木のいすを置いただけのトイレが2つある。3,400m地点、4,300m地点、5,200m地点にも設置してあるのだが、テント村のど真ん中にデーンと置いてあり、羞恥心があったら生きていけない世界である。しかしこれも自然を汚さないため。これ以外の場所にテントを張ったとしても、汚物はすべて分解されるビニール袋に入れてクレバスまで持っていって捨てなければならない。ごみは当然すべて持ち帰り。


延々と重い重いそりを引

 9日、4時に出発。ずっとヒデが、「吹雪になって停滞したい」とぼやいていたのだが、「何を若いモンが」と無視していたら、後でこれが大問題となる。

この日は途中から雪で視界がなくなったため、3,000m地点で泊まることにする。

 翌日、3,400m地点にテントを張り、高度に身体を慣れさせるため、4,100m地点に荷物の半分を雪に埋めにゆく。一度高い所に登って、再び下がって泊まると、身体が低酸素に順応してくれて楽になるのだ。

途中“ウィンディーコーナー”という強風の名所があるのだが、今年は異常気象なのか、通算5回ここを通ったが、幸運にもいつも風はほとんどなかった。

 
 

 ウインディーコーナーをゆく

この日ヒデがあまりにも歩くのが遅かったのだが、高度による倦怠感からだろうと思っていた。厳しい隊長である。でもテントの整地や設営、食事作りに到るまで全部やってあげているし、そういったことができないのは慣れていないせいだと思っていた。常に注意深く彼を観察していたが、重症の高山病の兆候ではないと判断した。

 11日、4,300mのベースキャンプ入り。ここから本格的な登山が始まる。われわれは4日目で入ったが、通常は1週間かけて入るところだ。NPSは最低5日かけろと指示している。多少無茶なのは判っていたが、時間がない。当初ソロで申請していたため、通常21日〜25日間くらい登山期間をとるところを2週間しかみていなかったのだ。全体的に自分のペースから10%増しぐらいで大丈夫だろうと踏んでいたのだが、この辺から初の隊長任務失格ストーリーが始まる。


ヘッドウォール上部よりBC(左下)をのぞむ

 やはり慣れないヒデには無理があった。その日のうちに39度の熱を出し、丸2日間寝込んでしまったのである。いくら解熱剤を飲ませても熱が下がらないので、ついに救急医療テントで診てもらうことに。幸運にも風邪か疲れからきた軽い高山病という判断で、翌日3,400m地点に下がることにする。低い所に下りて寝ると飛躍的に治ることがあるのだ。日数が十分でないため2人ともあきらめ始めていたが、運よく1泊でだいぶよくなったので、翌日すぐベースキャンプに戻ることにする。

 16日、降雪の後だったが15cmくらいの積雪量なので雪崩は何とか大丈夫だろうと5,200mのアタックキャンプへ。ヒデは辛かったろうがこのチャンスを逃すと日数の都合で帰らなければならないのでロープを結ばず時間をかけてゆっくり登ってきてもらう。

 17日、天候悪く、レストも兼ねて停滞。

 18日、この日登頂できなければ下山なので、どんなに天候が悪くとも行けるところまで行くつもりだった。12時間の降雪後12時間強風が吹き荒れた後だったので、そろそろ回復に向かうだろうと判断した。やっとアタックできると思うと体中がわくわくして目がランランとしてくる。

 9時強風のなかテントを出発。ペースが違うと私も辛いので、ロープは持っているが結ばずに登る。思ったとおり昼過ぎ、気象観測器を過ぎる頃から風がやみ、雲の中にすっぽり隠れていたデナリがその姿を見せ始めた。身震いがした。

疑似悪天のためアタックをかけた隊があまりおらず、前にも後ろにも誰もいない。ただ1人、その姿を前に見ながら真っ白い大地を歩くことは本当にすばらしい体験だった。

この時の感覚は、高所のせいかとても不思議なものだった。自分の皮膚から外側がとても輝いているように感じる。身体的には、息苦しくもなく、疲れもせず、いくらでも早く歩けるのに、感情にまかせてそうすると、手や足の触感が消えて意識が遠のきそうな気がする。何の障害もない(ように感じる)のに速く歩くのを我慢しなければならないことがもどかしかった。


最後の登り。右下方の2つの点はアメリカ人パーティー

内面的には、ただただ、「いまこの瞬間をありがとう」という山に対する感謝の気持ちと喜びがあふれ続けている。ヒデが後方に見えないので、30歩歩いては後ろを振り返って待ちながらゆっくり進む。

 いつしか、われわれより2時間前に出発したアメリカ人2人のパーティーにサミットリッジ手前の斜面で追いつき、新雪に自分の踏み跡を刻みながら、1歩1歩、頂上に近づく幸福を噛みしめる。

一番高いところに何か細長いものが見えた。行ってみると、それは各隊が立てた小さな旗だった。16時登頂。ほとんど諦めていたので、やっぱり嬉しくて、喜びの涙がにじんできた。

そのころには少しずつ眼下の視界も開け始め、奥行き深く連なるアラスカの山々、うねる氷河やお隣りのフォーレイカー山が見渡せた。この喜びをヒデと分かち合いたい、写真もとってあげたいと思い、小さな雪の丘の影で待つこと2時間半。おかげで目の奥に焼き付くほど360°の大パノラマ堪能できた。


サミットリッジにヒデが見えた!

 ヒデの頭がナイフリッジの向こうに見えた。隊員の登頂がこんなに嬉しいとは思わなかった。本当にヒデはよくやったと思う。そういえば、彼は常々、「大きい山登りはこれで最後にして、まともなサラリーマンになる」と言っていたっけ。


こんなにうれしい登頂はなかった!

 でもまだ気を許すわけにはいかない。テントまで戻って初めて成功といえる。自分たちの手で自分たちの写真を撮って、下山開始。滑落の危険がありそうな場所の手前でヒデが来るのを待つが、「ロープはいらない」と足取りもしっかりしているようなので、先に下りてテントの周りの除雪をしたり、雪を溶かして水作りをして待つ。

1時間後もう一度握手を交わす。リミット当日の登頂とは本当にラッキーとしか言いようがない。思わず笑いがこみ上げてくる。

デナリの通常ルートは技術的にこそ難しくないが、天候によっていかようにも厳しい状況になる山である。本来のデナリは、5日間身動きのできない猛吹雪が来たり、気温も−30℃以下に下がったりすると聞いていたが、今年は1日以上悪天が続かず、気温も下がって−10℃程度だった。カナダでもそうだったが、今年の冬は雪が多く、初夏はいやに暖かい傾向のようだ。

 翌日は、昼頃アタックキャンプをゆっくりと出発。途中、大きなスノーボードを背負ったかわいい女の子とすれ違う。1人でデナリの山頂から滑走するのだという。「世界にはまだまだ強者が育っているのだな」と、とても嬉しくなる。

悪天候でエアタクシーが飛ばなかったら、変更の効かない国際線のチケットを持っている私はアウトなので、途中2カ所でディポジットを回収しながら午前3時前まで下り続け、この日は2,400m地点に泊まる。燃料と食料があまり減っていないので、それはもう大変。スキーがあっても、重いソリがぶつかってくるのでまともに滑ることができない。


白夜にも夕焼けはあるのだ

それでも最後に大きな贈り物があった。この時期、北緯63°は白夜の世界である。深夜0時前、あたりはものすごい夕焼けにつつまれ、それが長い時間続いた後、月が真珠のように輝きだした。そしてそのまま青い夜明けが始まり、眠る4時半頃には昼間の明るさになった。こんな体験は滅多にできないだろう。明るいというのは、いつまでも行動できるので本当に安心感があった。登頂日も、天候が安定しているのを見て、夜登っていった隊と2隊すれちがった。


真珠のような月が沈む

 20日、最後の9Kmをゆっくり下ったが、あまりの暖かさにたったの2週間でそこらじゅうクレバスだらけになっており、ロープを結ぶことにした。雨のような雪が降り、体中びしょびしょになりながら黙々と歩く。トレースが無くなってくるが、ヒデが「道が正しい証拠発見」というので前方を見ると、人の列のような黒い点々が見える。「これでトレースは大丈夫だね」と言っていたが、近づくに連れてそれが滑走路に突き刺されたソリだと判った。

やっと戻ってきた。びしょびしょ雪がうっとうしくて、ついサングラスを外してしまい、この後2日間雪目に苦しむことになる。ガッシャーブルム登山の時もやってしまったのに、なんたる失態!雪目とは、瞳が雪による光の反射で焼けてしまうことだが、これが刺すように痛くて涙が止まらず、目がまともに開けられないのだ。

 翌日、「今日飛行機が飛ばないとヤバイなー」と悶々としながら、朝から待つこと10時間、視界がよくなった隙をついて赤い小さなプロペラ機がたて続けに何台も滑走路に滑り込んできた。

【参考】  ヤムナスカ登山学校 → http://www.yamnuska.com/

      (セメスターの様子は、『岳人』1999年9月号から12月号に連載)

      デナリレンジャーステーション → http://www.nps.gov/dena/


これが今回使った装備のすべて(行きと同じB&Bにて)