ヒマラヤばかり紹介してきたが、もちろん遠征に行っていない間は日本の山にも登る。緑が目にしみる無雪期の山から、リスクに目をこらす冬山、想像力を楽しむクライミング、浮遊感覚を遊ぶスノーボ−ドなど。それぞれの実質的な魅力とは別に、心の状態によって山との関わり方が変わるという内なる魅力もある。心が元気な時は、私が山に訴えかけ、山が放出するエネルギーを吸収する。逆に心が傷ついている時は、山が私に訴えかけてくる。自分から出すベクトルがない分、ダイレクトに山のベクトルが降りかかってくるのだ。屋久島を訪れたのはそんなときだった。ただでさえ生命のざわめきを一番感じる新緑の季節に、無防備な心が山に入るのだから、山が訴えかけてくる力は強いを通り越して強烈とさえ言っていい。

実際耳に聞こえるわけでもないのに、なにか圧倒的な量の生命の音が存在しているのがわかる。人に聞こえない周波で確かにざわざわしている。そして互いに秩序なく融合し合う屋久杉の生は、あまりにもどん欲すぎて恐さすら感じさせる。そんな中を沢に下りてみれば、生命の源である水はただ静かに流れている。こんなに透き通った水は見たことがない。しかも、流れているはずなのに水面は鏡のようだ。水の底の美しさにみとれると、水鏡に映った空は見えない。水鏡の景趣を楽しむと、水底のオブジェは見えない。流れや揺らぎを追うと、そのどちらも見えなくなる。人の目は、どれか一つにしか視点を合わすことができない構造なのだ。