ネパールのトレッキング街道では、あらゆるところでチベット仏教の表象物に出会う。上の写真は、タルチョーと呼ばれる、経文を木版印刷した祈願のぼり。街道から離れた丘のてっぺんや峠など、たいがい簡単にはゆけない高い場所にある。「バタバタバタ…」と激しく風に煽られる音だけが、あたりの静寂を突き破る。絶え間ないサウンドで、女性の名が付けられている山の神を慰めようというのか。下の写真はチョルテンと呼ばれる仏塔。これらはどれも、ヒマラヤの秀峰を望める位置にある。手前を行き交うのは、「ドッコ」と呼ばれる篭を額で運ぶ土地の女たち。おそらく彼女たちにとっては、この雄大な眺めも日常の背景にすぎず、しかし、無意識下でほとんど自動化された祈りの対象なのだろう。

最近流行りなのか、腕に木数珠を巻いている若者をよく見かける。ネパールでヒマラヤ登山をサポートしてくれるシェルパたちもそうしているので、なんだかおかしい。彼らは数珠の玉を一つずつ繰り寄せながら、「オム・マニ・ペメ・フム」と唱える。日本の「南無阿弥陀仏」のようなものだが、現地に長く滞在していると、ちょっとしたリスクを負う際、いつのまにか同じように経文を唱えている自分がいる。祈りとは不思議なものだ。確信を持って祈りに集中する時、意識が明晰となり、思考に秩序が与えられる。そして、今やるべき最善の行動に思い至るのだ。それは、その宗教を信仰しているかどうかなど超越したところにある、私たちが本来持つ能力を引き出すための、先人の知恵のようにも思える。