1996年8月8日、私たちはネパール・ヒマラヤの6,400m地点にテントを張っていた。後ろに見えているこんもりした盛り上がりが、メラピーク(6,473m)、生まれて初めて頂に立つことのできたヒマラヤン・ピークだ。すでに登頂したのに、なぜこんなところに留まっているのかというと、低酸素・低圧環境に身体を慣れさせるためである。この後、ベースキャンプでさえ5,350mもあるエベレストに出かける予定なのだ。それにしても、人の身体の自己改造能力には驚かされる。フリーダイビングの覇者、J.マイヨールの身体を潜水中に調べると、脈は20回台/分に下がり、血液は心臓などの重要な気管に集中していくという。生命は、思っているよりずっと速く、周りの環境に順応する力を持っている。

ほんの3ヶ月前までは普通のサラリーマンだったのに、この環境変化の激しさはどうだろう。360度をヒマラヤの峰々に囲まれ、夜は自分のいる高さより上すべてが夥しい数の星で埋め尽くされる。視線を真横に移すと、遠くで雷が閃光を放ち、ヒマラヤを被った雲を闇の中から青白く浮き上がらせている。なんという贅沢な環境を知ってしまったのだろうか。3泊もこの景色を独占したが、途中思わぬ来客もあった。イギリス人のパートタイム・アーミーのグループだった。話を聞くと、29歳の教官だけが正式な軍人で、残りはオックスフォードやケンブリッジ大学の学生だという。ヴァケイションを利用した体験コースのようなものだろうが、20歳前後でこんな体験ができるなんて、うらやましいかぎりだ。