「死ぬかもしれない」ということ 2001年秋のマナスル
2001 AUTUMN MANASLU
無私になる瞬間−私はからっぽ
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大久保由美子
(2002年1月号「岳人」掲載)

 2001年春、病床で書いたマナスル隊参加への手紙。
 大久保由美子さんは夏のリハビリを越えて、
 秋マナスル遠征に参加、登頂を果たした。
 けれど2次隊は遭難、仲間一人が亡くなる。
 生と死の鮮明な世界で、限りある生命を見つめて考えたこと。

ヒマラヤの美しいつらら マナスル6350m付近で

 1 命には限りがある

 以前から気になっていた右胸のしこりが悪性であることが判明したのは、2001年4月末のことだった。

 前日徹夜をして、やっと翌月に出発するナンガパルバット遠征の準備に目処がついた矢先の、まさかの宣告だった。だから、病名が明らかになった時でさえ、「遠征は行けるのか?」ということしか頭になかった。これでは、身体の声に耳を傾けることが一番大切な登山者として失格である。

 「人は必ず死ぬ」という当たり前のことを初めてリアルに受け止めたのは、96年2月に友人が雪崩で亡くなったときだ。それは祖母や伯父のときと違って、まったく織り込まれていない、突然の「死」だった。約束していたこともあった。

 今でも忘れられない。遭難処理を終えてオフィスに復帰した朝、自分の席について周りを見回したときのことが。いくつかの机の島が集まったフロアーで、いつものようにパソコンに向かって仕事をしているみんなが、その場所が、厚さ10cmくらいのガラスで隔てられているような錯覚を覚えた。ほんの2〜3日休んだだけなのに、そこはもう別世界だった。

「ここにいてはいけない」

 あの瞬間から、時間の流れが目に見えるようになった気がする。遅かれ早かれ、人は死ぬ。それは突然かもしれない。その時、たとえやり残したことがあっても、「あぁ、生きたなあ!」と思いたい。そのためには、いつ中断されても悔いが残らないよう、一瞬一瞬をちゃんと自分に正直に生きていかなければいけない。すべてを自分で選び取っていかなければいけない。そう思った私は、5年間勤めた会社を辞め、ヒマラヤに向かったのだった。

 ヒマラヤの世界に入ってみると、そこは信じがたいほど「死」が身近だった。初めての遠征で名シェルパ・ロプサン*1を失い、戻ってくると「ホテル・シャングリラ」でお茶をご馳走になった小西政継さん*2は旅立たれたあとだった。翌年のガッシャーブルムU峰遠征の帰りにコンコルディアで交歓した広島三郎さん*3や原田達也さんたちも、帰らぬ人となってしまった。そして、今回のマナスル遠征での栗原さんの死。「知っている人」も含めたら、ヒマラヤに行き始めてからいったい何人の方が亡くなったのだろう。

 それでも行くのをやめない私は何なのか。なぜ高確率の死のリスクを背負ってまで「登山」という行為にのめり込むのか。

 それはあの日、オフィスで感じた「命には限りがある」という強烈な憶いに根ざしているように思う。「死」を意識すれば、必然と「生」が浮かび上がってくる。「死」があるからこそ、よりよく生きようと思う。「人は死ぬ」ということをリアルに感じられることで、好きなことをやるための勇気がでてくるのだ。もちろん、だから危険なことをした方がいいと言っているのではない。「死」を意識するだけで、自ずと今、自分が採るべき道が見えてくる、と言いたいのだ。

 生命の神秘に驚嘆する子どものように、「あの向こうはどうなっているんだろう」と胸をふくらませる子どものように、いつまでも純粋な好奇心を忘れたくない。好奇心の赴くままに行動すれば、当然痛い目に遭うこともある。でも、間違いを恐れてそれをやらなければ学ぶこともできない。

 かといって、やみくもに好奇心に沿って暴走するのでは単なるバカだ。自分の力に見合ったことをする。無謀なことはしない。私は石橋を蹴りながら登るほうである。高校生になっても電気を消して寝られないくらい臆病だった私は、いつもどこで引き返そうかと考えながら、後ろを振り返りつつ登っていく。そして、たまたま引き返す理由が最後まで見つからなかったとき、頂に導かれることになる。


ピナクル上で雲と太陽が戯れている。C2より

 2 手術とリハビリを越えてヒマラヤへ

 今回のマナスルもそうだった。

 5月の前半に手術・入院した私は、病床で近藤和美氏に手紙を書いた。今こういう状態だが、もしリハビリが順調であれば、秋のマナスル隊に参加させてほしいと。以前から近藤さんの隊で遠征に行ってみたいと思っていたし、まだ病気が発覚する前、ナンガパルバットに登ったことのある近藤さんにお話をうかがいに行った際、秋の計画を聞いて、これから他の隊で出かけようというのに、「いいな!」と直感的に思ったという経緯がある。

 私は自分の直感を信じている。この時も、「最初から私はマナスルに行くことが決まっていたんだ」と確信していた。それは「登れる」という確信ではなくて、「いけば必ず得るものがある」という迷いのなさなのだ。すごい思いこみである。

 でも、山登りを始めたときも、ヒマラヤに登り始めたときも、すべてこの根拠のない確信に導かれていた。根拠がないので思い違いなこともたくさん起こるが、後で振り返ってみれば、必ずすべてに意味を見つけることができた。


 快諾のお返事をいただいた私は、それが大きな支えとなり、退院後リハビリに励むことになる。途中、がんに関する文献・資料を読み漁りすぎて混乱し、少々ノイローゼ気味になったりもしたが、リハビリが順調に進み、右腕が自由に動くようになってくると、もうすっかり気持ちはマナスルに向かっていた。

 そうはいっても、ここでも慎重だった。少しずつザックに負荷をかけていき、20kgの荷物で富士山を往復できたときに、ようやく自分の身体に責任が持てる自信がついた。そして正式に申し込んだのが7月の頭。

 今思えば、この間私は巧妙に向き合わなければならない対象をすり替えている。初期の乳がんよりヒマラヤ登山の方が、明らかに死のリスクが高い。正直言って、秋のマナスルの勝算は、私にはほとんどないと思っていた。それでも「行くべきなのだ」と確信したのは、ひょっとしたら、私はものすごい防衛本能で、がんという病気と折り合いを付けたのかもしれない。しかし、それが功を奏して私は冷静になり、より客観的に自分の身体を観察できるようになった。

 ただ、自信がついたとはいえ、リンパ浮腫の危険もある。私は、万一の時にベースキャンプからヘリを呼んで、1人でも帰ることができるよう、衛星電話を個人で持っていくことにした。それが2次隊の遭難で(私は1次隊だった)使わなければならなくなるなんて、この時は夢にも思っていなかった。


アタック終了間際、マナスルは音のない世界を垣間見せてくれた

 3 生と死が隣り合わせの世界

 遠征中も、常に身体の声に耳を傾けていた。一瞬たりとも帰るための余力を残すことを忘れたことはなかった。なぜなら死と向き合えたからこそ、より生に執着するようになったからだ。

 このうえない間の悪さが襲ったのは、アタック出発直前だった。

 順応は万全のはずなのに、どうもモチベーションが上がらないと思ったら、下血のような生理が雪面を染めた。予定日より5日も早い。出発する倉橋秀都さんに、「生理になったので、途中で引き返すかもしれません」と伝える。

 多少弱まったとはいえ、たびたび立ち止まらなければならないようなブリザードの中を、のろのろと進む。肝の臓に力を込めても、まるで足に力が入らない。前の齋藤明さんがどんどん小さくなる。何度も時計を見ながら、低酸素におかされた脳味噌で懸命に計算をする(この風が10時になっても止まなかったら、今日は無理だ)。

10時になっても止まない。先頭のシェルパたちが50〜100mおきに立ててくれた赤旗を頼りに、気持ちは迷いながら進む。帰りの余力を残しておかなければならない。鉄の味がする。鼻血も出ているらしい。

 あいかわらず、マナスルの上空には高く雲が巻き上がっていたが、午前中の風はおさまってきた。しかし、登頂制限時間に決められていた15時にはとても間に合いそうにもない。目算で15時30分か。立ち止まったり、数歩進んだりして考えたあげく、決断した。約8000mライン。私は羽毛服のポケットに入れたデジタルビデオカメラを取り出し、マナスルの頂稜に取り付いている黒い点に向かってテープを回し始めた。

「残念ですが、私はここで引き返したいと思います」。先を行く勇士たちの姿をビデオに収め、無線で倉橋さんに呼びかけた。「制限時間に間に合いそうもありません(ので引き返します)」


「いいから、そのまま登ってきて」。いつもの短い返事が返ってきた。引き返す決断の上での呼びかけだったのに、その断定的な一言が「ので引き返します」という言葉を飲み込ませた。シェルパのフィンジョーが酸素を1本持っている(と言っても彼が吸っているのだが)。いざとなれば、それを吸わせようと倉橋さんは思っているのだろう。

 とにかく許可は出たのだ。山では全力を出さない主義だったが、ついに全力を傾け始めてしまった。といっても、なりふり構わなかったわけではない。あれほど吹いていた風が今はぴたりとやみ、”帰れる”という算段がどこかにあった。10分ごとに時計を見て、とにかく、前へ、前へ、前へ。

なぜかシェルパのパルデンがフィックス・ロープを引きながら下りてきた。
―――?・・・!!

そのロープの先が頂上だった。15時09分。自分でもどこにそんな余力があったのかと思うくらい、倉橋さんの一言から自動的に足が動いた。

 あまりにも疲れすぎて、24分の頂上滞在中、シェルパたちと感謝のハグ(抱擁)をするのを忘れ、頂上の石を拾うのを忘れ、まともな写真が撮れたかどうかも怪しいといった体たらく。でも、帰りに静かな、限りなく静かなマナスルの夕暮れをビデオにおさめ、18時前にはテントに戻れたのだから、これ以上の幸運はない。一人なら確実に8000mあたりのプラトーで引き返していただろう。だから、今回の登頂は単に運がよかっただけで、実力だとは思っていない。

 栗原さんが亡くなったのは、その4日後のことだった。2次隊は、登頂予定日の10月11日、強風のためアタックキャンプに停滞した。その間に栗原さんの高所衰退が進んでいたのか、翌日2次隊がアタックをあきらめて下り始めたときに初めて彼の衰退が表に現れた。

 10日、私たちはC2から登ってくる2次隊と7000mあたりでエールを交わし合った。その時、栗原さんは今までに見たことのないような澄んだ笑顔で「登頂おめでとう!」と言ってくれた。意外だった。彼はいつも静かで、飄々としていて、あまり無邪気な表情を見せたことがなかったからだ。

 12日、ちょうどその辺りで近藤さんに付き添われてビバーク体勢に入った栗原さんは、一晩中「死」と戦った。夜が明けるまでしっかりと意識を保っていたそうだが、朝日を見て安心したのか、静かに昏睡していったと、後で近藤さんにうかがった。

 その瞬間、きっと栗原さんは、「あぁ、生きたなあ!」と思えたのではないかと私は信じている。


C1上部の「雪崩の巣」を抜けてほっとひと息
4 生きることが愛しい

 しかし、いくら「死」は「生」を際立たせるとはいっても、そうそういつも「死」を意識しているのは無理がある。夫婦喧嘩もすれば、飼い猫の糞尿も始末しなければならない。食べたり飲んだり働いたりもしなければならない。つつがなく日常をすごしていくために、遺伝子には「生まれれば必ず死ぬ」ということをあまり考えないで生きるようプログラムされているのかもしれない。

 ただ、この国は必要以上に「死」を隠蔽する風習があるように思える。ネパールで肉屋をのぞくと、1匹の山羊を解体し、部分毎にまとめてステンレス板の上に陳列してある。何を食べているのか一目瞭然だ。日本では手に取るときはすでにパッケージ化されていて、どこでどんなふうに解体されているのか知る由もない。

 主人の父が亡くなったときも、あまりの「死」のリアルのなさに愕然とした。火葬場の空きがなく、しばらく家で一緒にすごしたのだが、毎日葬儀屋がやってきて、遺体を美しく整える。真夏だというのに、いつまでもまるで眠っているかのようだった。

 「死」を遠ざけることは、「生き物」のリアルをイメージできなくなるということにつながるように思える。

 例えば、若い母親が子どもに対して理不尽に感情的になることがあるのは昔からだったと思う。でも死ぬまで虐待したりはしなかった。それは「死」がどういうものか肌で知っていたからではないのか。

 人間の欲望のままに作った都市では、死イコール自然(死ぬのは自然なことだ)が見えにくくなっている。でも、形あるものはいつか壊れるし、ものごとにはすべて終わりがある。自然の力に対する畏れは、人間が本能的に感じとっているもので、逃れられないものではないか。自然と離れすぎると違和感を覚えるのはそのためではないか。

 自分が乳がんだとわかったとき、自身のサイトに次のように書いた。「題名に『ねこのように強くなりたい』と書いたのは、ねこに限らず動物はみんなそうだが、彼らは傷を負ったとき、自身にシンパシーを感じることなく、ただじっと回復を待つ。ひたすら待つ。今でも、ヒマラヤのことを思い浮かべると心が騒ぎ出しそうになってしまうが、今はねこを見習って、ただひたすら病気を治すことに専念しよう、という決意を込めた」


 病室で一緒になった品のいいオバサマは、ひどく取り乱していた。寝耳に水の病名に「怖くてしかたがない」と言う。たぶん、私も山を始める前だったら、同じ反応だっただろう。もちろん、母が同じ病に2度も冒されながら、今いきいきと人生を楽しんでいるのを見ているおかげでもあるが。「がん」という病気が必要以上に恐ろしいものだというイメージの術中にはまって、みんな振り回されているように思う。「死ぬかもしれない」ということはそんなに恐ろしいことではない。だって人が死ぬのは当たり前なのだから。

 私の身体にはがん細胞が育ってしまった。本来なら、傷ついたがん細胞は淘汰される運命にあったのに、何らかの理由で免疫機構をすり抜けてしまった。「その理由を取り除くことにエネルギーを使わなくてどうするの?」とオバサマに言ってあげたかった。最善を尽くしてもダメなら、その遺伝子は淘汰される運命にあったのだ。無理に生かすことは、弱い遺伝子を残すことを意味する。それは大げさに言えば、種絶滅への道。自分もそのルールの中にいる。

 そんなふうに思えるようになったのは、たぶんヒマラヤを知ってからだ。もう少し言うと、初めての8000m峰アタックの時に感じた「ある感覚」を知ってからのような気がする。それは学術界では「フロー」*4と呼ばれていた。

そのとき私は、頂へと向かって、唯一つの明確な目標に自分のすべてを集中できる幸福を味わっていた。どうしようもなく生きていた。それはまさに、ほかならぬ自分の意志によって進む道を選んでいる、という実感の連続だった。

 そんなことも後から意味づけたことで、実際に登っている間は、必死に生きようとすること、それ以外に何も考えていない。すると「私」がなくなる。普段は自我や感情など余計なものに苦しめられているが、そこから解放されるのだ。無私になる瞬間、私はからっぽだ。

 時間がゆっくりと流れ始める。一瞬が永遠に感じられる。5感が鋭敏になり、周囲の情報がどんどん入ってくる。死のリスクが身近に迫っていることで、集中力が異常に高まるための脳の作用かもしれない。でも、時間がたつと、その「からっぽ」は、なにものにも代え難いもののように思えてくるのだ。

 「からっぽ」の経験は、私の世界を変化させた。自然の事象に立ち会わせてもらえる奇跡に感謝した。そのときの気持ちを日常に持ち帰って、噛みしめながら生きられるようになった。生きることが愛おしくなった。人によっては、日常の中に「からっぽ」を見つけられる人もいるかも知れない(それは私にとって達人の域だ)。

たまたま私は山だった。山を知るまでは、ほうっておいても入ってくる情報が、私の情報のすべてだった。それが、ひとつのことに興味が集中すると、いろんな情報が入ってくるようになり、いろんな世界が見えてきた。多様な世界を知ると、寛容な気持ちになる。多様な価値観を知ると、均質化された世界をアンバランスに感じ始める。地球には、もっともっといろんなものが山ほどあって、バランスよく成り立っているのだ。今、私はその中の小さな小さな一部なのだということを実感し始めている。


アイスフォール帯を梯子を背負っていく倉橋登攀隊長

注●
*1 ロプサン・ザンブー 93年春のエベレストを皮切りに、4年連続でエベレスト無酸素登頂を果たしたクライミング・シェルパのホープ。96年9月21日、小西浩文とともに5度目のエベレストに挑むが雪崩のために遭難。
*2 小西政継 山学同志会を率いて1970年代にヒマラヤ鉄の時代を築く、日本を代表する登山家。96年登陵会のマナスル遠征に参加し、登頂後行方不明になる(10月1日)。
*3 広島三郎 原田達也 両人ともカラコルムの登山に精通する登山家。97年8月20日、神奈川県ヒマラヤ登山隊でスキムブルム峰に遠征、帰路BCで爆風雪崩に襲われ、2人を含む66人が亡くなった。
*4 フロー 「一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするということのために多くの時間や労力を費やすような状態」を、M.チクセントミハイがフローと名付けた。参考文献は『フロー体験 喜びの現象学』(M.チクセントミハイ著 今村浩明訳 世界思想社刊)