私は女医と、心のコントロール

Basic Wilderness Emergency Response

 恐怖のファーストエイド・セクションがやってきた。何が恐怖かというと、ほとんど環境ミュージックと化しているネイティブ・スピーカーの英語である。このセクションは、6日間毎日、朝の9時から夕方5時まで応急手当についての授業がびっしり。ご丁寧にも最終日にはペーパーテストまである。
 ヤムナスカの日本人スタッフ、難波寛氏も「長期のファーストエイド講習がヒアリング力を伸ばす転機になった」と、当時を振り返っている。私は遭難寸前のヒアリングの中で、どうにか踏みとどまる状態が続いた。
 講習は、「CANADIAN INSTITUTE of SAFETY SERCH & RESCUE」という団体に委任されており、カルガリー近くの〃キャンプホライゾン〃という、二段ベットのビニールマットが光る軍隊合宿所のような施設に泊まり込みで行われた。授業は机上講習にとどまらず、野外にリアルな事故の状況を設定して、グループで適切な応急処置にあたる訓練を繰り返す。AR(人工呼吸)やCPR(心肺機能蘇生)は、きちんと空気を送ると肺が膨らむ人形を使って練習したが、知識では知っていることでも、実際やるとなると意外に難しい。さらに、思わず目をそむけたくなるような、ありとあらゆるケガの症例をスライドで見せつけられた。冷静に見られるよう、「私は女医」などとマインドコントロールに必至になる。野外実習も、徐々に本格的になっていく。そのうち先生の手によって、吹き出す血や、骨の突き出たケガの細工までされはじめたときには、ちょっと笑った。が、みんな真剣。自分の不謹慎さを反省!
 平穏な日常、幸運なアクティビティの中にいると、その背中合わせにある危険を、認識はしていても、事故が起きた時の結果(外傷)をリアリティーをもって想像できなくなってくる。今回の視覚的刺激とシミュレーションは、本当によい戒めとなった。

弱層テストにも慣れ、雪世界へ

Second Ski Trip - Avalanche Awareness

 初日はロッキーの中でも穴場的スキー場、「ナキスカ」で技術クリニック。前日のオフもレイクルイーズのスキー場に出かけ、久々の圧雪ゲレンデで〃なんちゃってウェーデルン〃を楽しんだのだが、新雪状態で講習を受けると、早くもその化けの皮をはがされてしまう。インストラクターのポールに、「常に大事なSAKEの瓶を、目一杯前に抱えるようにストックを持て」と指導される。なんで酒なのだ。
 翌日は、1日中オフィスで雪崩に関する机上講習。「CANADIAN AVALANCH ASSOCIATION(http://www.avalanche.ca/)」が推奨する教材とスライドによる非常にシステマティックな授業だ。最後にリアルな雪崩事故の映画を見せられた。雪崩3種の神器=ビーコン、ゾンデ、スコップが生死を分かつというありがちなストーリーだが、設定が友人を失った事故に酷似していたため、思い出して悲しくなる。だからこそしっかり学ばねばならないのだ。
 3日目は、スキーツアー準備デー。今回は自分たちで食糧計画を練るのだが、食べつけないものを準備するというのはけっこう大変。例えば、朝はオートミールにバナナチップ、砂糖、粉ミルクを混ぜ、お湯をかけて食らう。昼はベーグルやピタに、サラミやクリームチーズをはさむ。夜はツナマカロニやチョーメンライス(なんと、お米とかた焼きそばを、野菜と調味料で煮る。最初はギョッとしたが、これが案外いける)など。山登りのいいところの一つは、何でもおいしく、ガツガツいただけることである。
 4日目から6日間は、とにかく雪というものを学ぶためのアルペンスキーツアー。場所は、キャンモアからバンクーバーへ向かって1号線を車で3時間の「グレイシャー国立公園」。フィールドに入る前に「ロジャース峠センター」に立ち寄って、天気や雪崩情報、雪の状態のデータをチェック。情報はもちろん毎日更新されている。
 雪の状態は、1日ごとの積雪量、地面から雪面までの各層の固さ(F=フィスト/握り拳を押し込める固さ、4F=4本指が入る、以下同、1F=1本指、P=ペン、K=ナイフ、I=アイス)などがグラフで表されており、クラストした層など一目瞭然でわかる。さらに、入山者はセンターに登録して、戻らないとレスキューが出動する。一般的に危険地帯に入るレジャーが盛んなカナダならではである。
 それにしても毎日とにかく雪の斜面を掘って掘って掘りまくった。深さ1m以上の層を切り出して、まず各層の幅、固さ、結晶の形、温度をチェック。次にBurp Test=スノーソーで30cm四方の雪の層を切り出してスコップに乗せ、下から手で震動を与える、Compression Test=切り込みを入れた雪の層の上にスコップを乗せ、手でスコップの上から震動を与える、Shovel Shear Test=切り込みを入れた雪の奥側の切れ目に、両手で支えたスコップを差し込み、手前にゆっくり引っ張る、Rutschblock Test=細引きとゾンデを使って、幅2m、奥行き1.5mの切り込みを入れ、その上にスキーをつけた人が乗る、などを繰り返して弱層を調べる。弱層があると、軽い震動でスパッと切れ落ちるというわけだ。
 不思議なもので、以前はスコップやビーコンを持つのは重いし、弱層テストはやっている時間がないと思っていたのに、当たり前のように毎日やっていると、重さも苦にならないし、テストも短時間でできるようになる。やらないと不安にさえなる。こういう慣れは、大いに推奨すべきだろう。そういうもんだと思い込むことがポイント。
 もちろん雪をサイエンスしていただけでなく、天候や雪崩の起きそうな地形の判断、広い斜面での遭難者発見シミュレーション、スキーで簡易ソリを作ってけが人の搬出から、スキー登高のためのルートファインディング、地図とコンパスによるホワイトアウトの中でのナビゲーションなど山スキーの基本まで学び、そして一本もシュプールが見あたらないパフパフのパウダースノーを滑りまくる。というより重いザックに後ろを引かれて、ほとんど転げ落ちていたというのが実状だが。

ワプタ大氷原で雪洞堀り

Glacier Ski Trip

 初日の準備デーで、セクションの目的、装備、ルートを確認した後、クラブハウスの庭でコンティニュアス・クライミングのシミュレーションをする。北米では、アンカーにすぐセットできるよう、あらかじめ自分の前(中間の者は後ろにも)のメインロープに、ロープスリングをプルージックで結び、余った部分をデイジーチェーンにしておく。ちなみにヤムで使っているのは4mの7mmロープ(スペクトラロープなら5.5m)。
 スライドで、氷河地形の特徴と、世界中の様々な種類の氷河を見た後、キャンプの食料をテントメイトとパッキング。慣れてくると準備も早いもんだ。
 今回のセクションの主な目的は、スキーで氷河を安全に旅することと、万が一クレバスに落ちてしまったときの救出方法の習得である。場所は、キャンモアから車で1時間半(いつもながらアプローチのよさがうらやましい!)、レイクルイーズの先の 「Wapta Icefields」。広さ150平方キロの大氷原だ。氷河の溶けた水が流れ込んでできたボウ・レイクが出発点。湖はまだ凍っていて、スキーでガシガシと渡ることができる。夏は小川になるのだろう、両側に雪壁が迫る狭い廊下を通り抜け、森林限界を超えると、目の前にドーンと、上部に懸垂氷河を持つ大岩壁が現れた。そこは、雪崩やセラックの崩壊で有名なところだが、氷原上へ行くためにはその下を横切らねばならない。
 翌日は、2グループに分かれて3000mのMt. Crowfootを目指す。その名のとおり、この辺はカラスが多い。4日目など、スノーケイブにしまっていたわれわれの食料と薬袋がズタズタにされた。朝の気温はマイナス9度。出発1時間前まで雪が降っており、15cm位スキーが沈む。出発前には、必ずビーコンの発信音をチェック。ルートは、生徒が交替でリードしていくのだが、本日の一番乗りは私。新雪をスキーで踏む感じがいやに頼りなく、(ヤダナー)と思いながら丘の下を横切ったら、その丘が一瞬にして崩れた。
 縦3m、横10m位の小さな崩壊だったが、音がスゴイ。「ヴォンッ!」と瞬間的に空気が圧縮されたような異様な響き。何か感じたときは必ず何か起きるのだと肝に銘じる。この日は風が強く、広くなだらかな白い起伏の表面を吹きすさぶ風がさらい、見渡す限り雪がキラキラと波のように走り、まるで雲の中を歩いているよう。夕方は、スキーを使ってT字アンカーの理論を学ぶ。
 3日目は、待ちに待った快晴。春だというのに、朝の気温はマイナス16度まで下がる。ついに大懸垂氷河の下を横切る日が来た。この2日間、全く崩壊箇所はみられなかったが、朝あれだけ冷え込み、今は日が当たって突然気温が上昇しているため、(セラックやばいかもなぁ)と思っていた。私は臆病者なので、一人だったら日が当たる前に出ていただろう。谷の底を遠巻きに横切り終わり、斜面を登ったところで休んでいると、あにはからんや、「ドーン!」と雷のような音が谷に響きわたり、「ドドドーッ」と雪崩れはじめた。結局、デブリはトレース手前で止まっていたが、その時そこを通過していたら、どれほどの恐怖を味わったことだろう。昨日肝に銘じたことは何だったのだ。集団で、絶対的なリーダーがいると、つい意見を言いそびれることはよくある。気をつけねば。昼にはその岩壁の裏側の大氷原に到着。白い雪原が海のように広がり、その向こうには3000m峰がいくつも見える。こんな神秘的な場所が、山の上にあるとは!と、大感激。
 午後はスノーケイブ作り。雪の斜面にスコップでトンネルを掘り、その入り口より高いところをさらに掘り進み、3人が寝起きできるスペースを作る。こう書けば簡単だが、思ったより雪が固く、3人で無心で掘っても3時間はかかった。天井に空気穴を作って出来上がり。雪の中はテントよりずっと暖かく、快適…のはずだったのだが、われわれ女3人グループは天井を掘りすぎてしまい、精神的に落ち着かない夜を過ごすハメになる。
 夕方、クレバスレスキュー・システムの基本を学んだあとスノーケイブに戻ってみると、われわれのだけ天井がへこんでいるではないか。特にクリスティーの寝床の上がひどく、彼女は寝る前、天井に手をかざし、「stay here, stay here…」と唱えていた。翌朝も晴れてマイナス11度まで下がる。おかげでわれわれの天井も何とか持ちこたえてくれた。

ヒマラヤにも勝る景観に酔う

Mt. Gordon

 この日は陽が登ってもあまり気温が上がらなかったため、みんな足先のしびれに苦しむ。後半のメインインストラクターになるマイキーが教えてくれたのだが、両手のストックで身体を支え、片足ずつ出来るだけ大きく前後に何十回も振ると、血流が足先まで行き届いてしびれがとれてくる。原始的な方法だが効果は抜群で、さすがにいろいろ知っているなと感心する。この日は3200mの Mt. Gordon へ。
 たったこれだけの高さで、頂上からの景観は、ヒマラヤに勝るとも劣らない。とにかく山深く、見渡す限りどこまでも氷河の爪痕を持つ急峻な山、山、山。遠くアッシニボインやバガブーまで見渡すことができる。午後は登高中に見つけた安全な急斜面で、本格的なクレバスレスキューの実践。すぐに復習しないと絶対に忘れるほど複雑なシステムだ。要は、昔理科で習った滑車の理論なのだが、アレは当時も苦手だった。
 もう日も長くなり、アルバータ州時間で午後9時を過ぎてもまだ明るい。雪が音を吸収するのか、夕暮れはとても静かで、ローズ色に染まった大氷原の斜面に小さく描かれた、シンメトリックな美しい弧のシュプールと、ちょっと不格好なそれだけが、静的風景の中で昼間の躍動を物語っていた。(つづく)