屋久島の自然に季節を感じて
2000年1月号「岳人」(東京新聞出版局)掲載


 よおく思い出してみてください。あなたにも、まだ幼かった頃、水分をたっぷりふくんでやわらかくなった種の殻を頭にのせて、いつのまにか萌え出ていた小さな小さな芽が、天を突くようにまっすぐに伸びていく速さ、力強さに、目を見はった記憶があるのではないでしょうか。

 たとえ本州が冬であろうと、屋久島の森に一歩踏み込んだとたん、あっというまにそんな気持ちを思い出させてくれます。九州の最高峰・宮之浦岳に、白谷雲水峡経由で入れたことは幸運でした。おびただしい数の木霊(こだま)がおしゃべりしているような、音のないざわめき。「もののけ姫」の制作スタッフが、事前に屋久島を訪れたというのもうなずけます。多様な生の共存に、ただただ圧倒されるのです。"魑魅魍魎(ちみもうりょう)"という言葉は、こんな場所から生まれたに違いありません。

 あたり一面を覆い尽くす、ふかふかで弾力性のある肉厚なコケからただよう、豊潤な水の気配。老女の指のように地に這う根という根にも、愛らしい緑の生き物が、照葉樹林の隙間からこぼれ落ちる光によって、ぼうっと浮かびあがっています。


 わたしたちにそんな自然の原始の姿を垣間見せてくれるのは、人工物とは思えないほどひっそりと配慮された、屋久島産の石を張ったという遊歩道や、スギ材が使われた階段です。大株歩道の手前にはくぐり杉と名付けられた根幹を通り抜けられる杉があります。かつてこの空洞には倒木があり、その上に落ちた一粒の種子がその栄養を吸いあげ、倒木が跡形もなく朽ち果てる頃には、巨人の大股開きとなったのでしょう。

   

 反対に、2本の巨木の根本が融け合っているものもあります。繋がった幹の上には、榊の枝葉が白い瓶の中に添えられていました。巨大な切り株の表皮だけ残して、中身が朽ちてしまったウィルソン株の内側には泉が湧きだし、かたわらには小指ほどの赤ちゃん苗が芽生えています。メイプル形の入り口から眩(まぶ)しい外を見やると、両手の平でつつめる太さの若木が何本も見えます。

 老いて静かにその終わりを待つかのような縄文杉。男女の交わりを連想させるような、互いに密着し合いながら、たわんで同じ方向に伸びる太い杉と一回り細い杉。古い根の肌膚には、マーブルケーキよろしく、混沌とした紋様が渦を巻いています。ずっと上の方に、千手観音のごとくたくさんの枝を広げているのはモミでしょうか。

 薄明かりの中で、想像を絶する程の長い長い時間をかけ、太古の昔からずうっと続いてきた生命のリフレインに思いをめぐらせながらも、融合した木々に、貪欲な生の本当の姿を見せつけられたようで、怖い気さえしてきます。


 太陽と水の島を堪能しようと持参した渓流シューズで、近くの清流に下りてみます。こんなに透き通った水は今まで見たことがありません。今そこで、泉からこんこんとわき出したばかりのようです。川底の白い砂と岩礁が少し青みがかって見え、自然のオブジェを造り出しています。同時に、水面には上空の葉の一枚一枚がホログラフィのように映し出され、写真でしか両方を重ね合わせて見られないのが少し残念です。こんな静かな淵に足を踏み入れると、光の帯がゆらゆらと川岸に向かって広がってゆきます。

 適当な陸にあがり、一瞬迷いそうになってどきっとしましたが、ようやく一見の者に許された人間の通り路を探り当て、さらに登っていきます。やがて頭上を覆っていた枝がだんだん低くなり、その間に見える空の分量が少しずつ増えていきます。最初はTシャツ一枚でも汗ばむほどだったのに、わずか数時間のうちに一枚また一枚と重ね、シェルを羽織る頃には、腰より低いシャクナゲ、そしてヤクザサの海となります。

 翌日は、昨日までの晴天とうって変わって、白いもやが立ちこめ、そんなに遠くまで見通せません。すべてのものに雲や霧の水粒が凍りついて、ヤクザサの海は純白の羽毛をまとったお花畑のよう。わたしがそうしたように、誰もが近づいて、規則正しい幾何学的な美しさを持つ結晶に目を凝らすはずです。必要最小限の指導標に張り付いたエビの尻尾が、風の存在を姿で表しています。

 ある道の分岐点で、とても軽装な若いグループとすれ違いました。少し心配です。里は夏、森は春でも、ここはまだ、いつ雪が降ってもおかしくない状態です。真冬には2〜4mも雪が積もるということです。人間が自然に分け入らせてもらうときには、やはり敬意が必要です。

 きっと「ぬける」という予感がしていました。宮之浦岳手前の凍てついた大岩を回り込む頃には、光の粒子が届きはじめていたからです。案の定、頂上で少し待っていると、流れる雲に太陽が透けて見えはじめ、ところどころ青空さえ望めます。晴れていれば、北に桜島、東に種子島、西に口之永良部島、南にトカラ列島が見えるはずです。目をつむって、心に思い浮かべてみました。

 その日はいったん、石塚小屋まで下ったのですが、どうしてもあきらめきれないわたしたちは、翌日早起きをして晴天を確認すると、まだ暗いうちから尾根を登り返しました。頭上をさえぎるものは何もありません。隙間がないくらいの満天の星にめまいを覚えながらも、いくつもの流れ星に気付くことはそう難しくありません。

 以前、山に登らない友人が、「流れ星なんて一度くらいしか見たことがない」と言っていましたが、それを聞いてとても不思議な感じがしました。山をやっていると、いくらでも宇宙の神秘に酔いしれる機会が持てるからです。一度など、飛行機が炎上しながら落ちているのではないかと思えるほどの代物を目撃したこともあります。山は本当に贅沢な遊びです。

 黒味岳の頂上に着く頃、ちょうど紫色の雲海が白み始めました。きれいな水平線のように見える雲海も、よく見ると積乱雲がところどころ小さく盛り上がっています。そのラインから小さなオレンジ色のダイヤモンドが顔を出し、おもわず振り向くと、みんなの顔にも頂上の奇岩にも、すべての色という色に朱が加わり、その向こうには、空の水色と雲海の藤色の境目に、桜色のグラデーションが広がっています。この朝陽で、いったいどれだけの生き物が目を覚まし、1日の活動を始めるのでしょうか。

 「人生に溢れる好奇心を持ち、間違いから学ぶことを恐れない」という字幕を、以前、映画の中で見つけました。わたしの大好きな言葉になりました。幼い頃は、何もかもが新鮮で、驚きに満ちあふれていました。この世界の現象に慣れてしまい、好奇心を失ってしまうことが何よりも恐ろしい。水平に流れる永続的な時間と垂直に流れる四季とが同時にうずまく屋久島がそれを教えてくれました。


今回の撮影スタッフ(取材日:1998年2月下旬)